2018/04/01 ブログのテーマをcocoonに変更しました。

絶望の種

高校時代の僕の拙い思考が、最近の僕を取り巻いてしまっている気がするので、発散と可視化を兼ねて書いてみようと、ふと思いました。

 

タイトルから分かるようにネガティブ論です。苦手な方は読まない方がいいかもしれません。

また、若干ではありますが不謹慎であると受け止められてしまうような表現があります。お気を悪くされた方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ございません。予め、お詫び申し上げます。

 

 

 

僕の今までの人生をたどると、幼少期に「早く幼稚園に入りたい。」と思っていた記憶がうっすらと浮かんでくる。恐らく、二人の兄が楽しそうに話していたからだろう。

幼稚園は入ってみると、想像していた通りとても楽しかった。友達がいて、優しい先生がいて、遊んで、寝て、また遊んで。

家にいても園にいても、楽しい時間が流れていた。将来のことなんて微塵も考えていなかっただろう。

卒園に近づくと、僕はこんなことを思い始めた。「早く小学生になりたいな。授業ってどんな感じなんだろう。」

 

小学校はもちろん楽しかった。スポーツ少年団に所属してサッカーにハマり、友達と待ち合わせをして放課後にはみんなでゲームをしたりして遊んでいた。

しかし小学四年生くらいから「小学校って単純な宿題がたくさんでめんどくさいなぁ。中学生になりたいな。」と思うようになった。

その後の小学校生活ももちろん楽しかったが、中学への期待の方が大きかったと思う。

 

そして中学に入学。早い段階で「なんだ。中学って小学校よりも大変なことが多いじゃないか。高校の方が自由そうだなぁ。」なんてことを思い始めた。

以前に書いたことがあるが、この頃ゲームという現実逃避にハマってしまい、学校へ行くこと自体がかなり疎かになってしまった。未だに後悔の対象になるとは。

 

高校に進学。ここでとうとう気付く。

「進めば進むほどしんどい思いをすることが多くなる。きっと大学に進んでも社会に進んでも、この構図は変わらないだろうな。将来しんどい思いをするために勉強するのか。なんだかよく分からない。」

 

事実、人生の夏休みと言われる大学生活は、強制力というものがなく、現実逃避をするには非常に楽な環境で、どんどん自分は泥沼にハマった。いや、ハマっている。

自分にとっては高校よりも大変だと感じる環境。そこで『しんどいと思われる将来』のための『勉強』をしているわけだ。

 

 

幸せって何だ?

 

 

今までは『楽をして楽しいことをすることだ』、と思っていたけど、それを満たすためにはしんどい思いもしなきゃいけない。嫌なことからも逃げちゃいけない。

今この時間で、何なら一番楽しかった小学校時代で人生を終わらせてしまった方が、総合的に見て圧倒的にいい人生なんじゃないか?

辛いことを超えた先に、幸せが待っている?そうなのかもしれないが、辛い経験をした事実が消えるわけじゃない。

 

もちろん自ら命を絶つなんてことは考えなかった。正確に言うと、考えたことはあるが実行に移そうとは考えなかった。自分の楽や幸せ以上に、少なからず僕と関わって来た誰かの悲しみがあることには気付いていたから。そして月並みな言葉だが、まだ生きていたかった誰かがいるから。

それでも未だに考える。進んだ先に何があるんだと。誰かが言う幸せは自分の幸せとイコールじゃない。

やりがいとか達成感とか、努力とかなんとかって言うものは、自分の幸せのパーツになり得るのだろうか。自分の未来に、楽しすぎた過去を超える何かがあることを想像できない。

絶望は乗り越えるために、乗り越えて強くなるために用意された?絶望は絶望だろう。仮にその文言が正しかったとして、その強くなった先には何が待っているんだ。

苦しい出来事の分だけ、楽しい出来事が待っている。確かにそうだろう。ではその楽しい出来事の先は?やはりまた苦しい出来事だろうか。その繰り返しで人生は進んでいくのではないか。

 

 

人の感覚は、体験を繰り返すごとに鈍化していく。目や耳などの五感はもちろんだが、感情に関しても同じことが言えると僕は考える。

感動を繰り返せば感動は薄くなる。楽しいことや嬉しいことも同じことだ。

同時に悲しい・辛い・苦しい出来事も繰り返せばまた、その感覚は鈍くなって行くだろう。それなら別にいいじゃないかと思うだろうか。

過去の苦い経験を指して「あの時よりはマシだ。頑張ろう。」と言う人がいるが、それは感覚が鈍って感じにくくなっているだけかもしれない。麻痺を起こしている。辛さの度合いはもしかしたら、その過去を超えているかもしれないわけだ。

逆に楽しいことや嬉しいことは、「何故あの時より楽しくないんだ。」と言う悪い印象が強く残るような気がする。もちろん新たな発見や刺激はその都度心に残るだろうが、無限ではない。

そんなことを考えると、長い人生の意味が、本当に分からなくなる。たぶん答えは無いから、考えない方がいいのだろう。

 

 

こんなネガティブに包まれたことを考えていると、やはり僕は周囲の人々に支えられているんだと思う。これは素直に恵まれたと感じる。

支えと言うより、僕が持つ『絶望の種』を上から押さえ付けて貰っているような感覚だと思う。多人数ボディプレスみたいな。

もしも、僕の周りから人々がいなくなり、自分の死を悲しむであろう人がいなくなったら、そして同時に僕が、亡くなった方々を……つまり、生より死を羨むようになってしまったら。

重い枷を無くしたその種は、僕の生命を吸い取りながら芽吹き、蕾を付け、やがて花を咲かせ、僕の全ては尽きるのだろう。絶望ってものは、それほどのエネルギーを孕んでいると思う。

どれほど大きな種なのだろうか。それとも小さいのか。少なくとも僕にとっては、自分の体よりも巨大な種を抱えている気分だ。

 

僕の最期に、その花が咲いていないことを、今は祈ることしか出来ない気がする。

 

 

The following two tabs change content below.

オサダ

様々なジャンルの記事を書いていきます。
興味がないのに読んでしまう。そんな記事を目指して。
言葉を介してあなたのもとに。言葉がなくともあなたと共に。
連絡先:osada@routecompass.net

コメント