『ハーモニー』:目指した未来はユートピアかディストピアか

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人生の中で、自分自身に大きな影響を与えた作品というのは、人には少なからず一つや二つあると思う。映画や小説、アニメ、漫画、他には誰かの言葉。そういうものに出会えるのは、幸せなことだろう。
そこで今回、僕が大きく影響を受けた一冊について、書き殴っていこうと思う。

その一冊というのが『ハーモニー <harmony/>』。
若くして亡くなった伊藤計劃の、最後のオリジナル作品。そして、ユートピアとディストピアの境界を描いたSF作品。僕の好きな作家の一人で、願ってももう新作を読むことが出来ない現実。

数年前に映画化した際に知った方も、最近開催されたハヤカワ文庫の百合SFフェアで知った方も多いかもしれない。ただ今回は、百合とかその辺りにはあまり重点を置かない。

まずストーリーに触れる前に一言だけ。
僕がこの作品に影響を受けたというのは、物語の内容だけではない。とにかく文体が好きで、文字から香りや色、感情が強く伝わってくる。もしかしたら、僕の感性と相性が良かっただけなのかもしれないが、文字に溺れる感覚を味わえたということが記憶に残っている......。

世界観としては、著者の前作『虐殺器官』の世界線を引き継いでいる。引き継いでいるといっても『ハーモニー』自体、独立した作品ではあるので『虐殺器官』を知らなくても、心配しなくても良い。
さて、『虐殺器官』は9.11を切っ掛けに分岐した世界の話であった。テロの一掃、特殊部隊による内戦や紛争への武力介入をすることで世界平和を目指していた。戦闘用に開発された、オルタナ(ARコンタクト)やナノマシン、人工筋肉。様々な技術が「殺す」ために作られ、広まっていった。
そんな『虐殺器官』から半世紀後、世界は別の方向で平和を目指すように変化していく。バラバラだった各国の境界を無くし、一つの「生府」が世界を統括する。高度な医療により、健康と幸福を与えられる社会へと変化したのだ。

健康であること、幸福であることが、「義務」であり「常識」になった。全国民の健康がWatchMeと呼ばれるナノマシンにより管理され、誰もが病気を知らない、まさにユートピアと言える世界。
飲酒も喫煙も禁止され、公園の遊具や交通機関からも危険を極限に排除され、「病気」も「自殺」も「不慮の死」も許されない。
あまりにも徹底的に漂白され、潔癖な社会。

そしてある日、世界に疑問を覚えた女子高生が自殺した――。
それから13年後が、『ハーモニー』の舞台。

 

13年前に自殺した女子高生、御冷ミァハ。
ミァハに共感し一緒に自殺しようとするが失敗した、霧慧トァン。
二人と一緒に自殺しようとするも出来なかった、零下堂キアン。
この物語は、自殺に失敗したトァンの一人称視点で進む。

13年経ち高校生だったトァンも、WHOの上級監察官として「生府」の監視の外、紛争地帯を中心に活動するようになっていた。自身の健康を監視するWatchMeを騙す非合法なナノマシンを体に取り入れながら。
自殺に失敗したことに後悔するも、死ねずに生きている。ただただ自分の体を痛めつけるように、「生府」の目を騙し飲酒と喫煙を続ける日々。生きる意味も目的も無く。
そんな非合法な生活もある日、「生府」に露見し日本へ送還されることに......。

体型や食事などが理想形に設定され、徹底的に過保護で優しく、すべてが画一化された社会。そこに生きる彼らにとっては通常でありながら、トァンから見ても読者から見ても異常な社会。
そして、久しぶりに日本へ戻ったトァンは、昔一緒に自殺を行おうとしたキアンと食事をすることになるのだが、その最中、世界に変化が起き始める。
テーブルに置かれたカプレーゼ。
グラスに零れる深紅の雫――。
突然、世界中で自殺をする人が現れた。同時に、そして大量に。
「死」というものから切り離された世界に発生したノイズ。そのノイズの中にトァンは、13年前自殺を行ったミァハの影を見るのだった――。

 

 

「生きる」ということに正面から向き合った作品。
殆どの病気を駆逐し、常に体調を管理され、幸福や「生きる」ことへの倫理観を強制された世界は幸せなのか。それって生きていると言えるのだろうか。
優しさというオブラートに包まれた世界で、息苦しさを感じたミァハ。死ぬことで小さな抵抗をしようとしていたが、それは間違いだったのだろうか。

誰もが幸福で健康というユートピア。
幸福を規定され生きる選択肢を奪われたディストピア。

ユートピアとディストピアは表裏一体だ。
外側で生きるか、内側で生きるかで見え方が変わってくる。
すべてを管理され、とにかく長く生きることを優先したいか。リスクを背負いながらも自由に生きたいか。どちらが好みだろう。

僕は生きるというのは、自分の意志で選択することだと思う。選択肢を奪われるというのは、殺されるのと変わらないのではないか。どれだけ長く生きても、最期まで自分の意識がなければ生きていないのと同一なのかもしれない。

綿密に練られた『ハーモニー』の世界観は、創作という虚構でありながら、伊藤計劃という一人の人間が突き付けた現実。文章から漂う潔癖さ、真っ白で、リノリウムの床を歩くような清潔感の中に、血腥さが蓋をして押し込められている。

 

向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね

作品の中で、一番心に突き刺さったセリフだ。
この言葉こそが、『ハーモニー』という作品を象徴している気がする。
僕たちは常に死と隣り合わせに生きている。至極当然なことだが、明日が来ることを疑わないように生きているほとんどの人が、忘れかけている真実。実際僕もそうだ。当たり前すぎて、ときどき忘れる。

でも死はすぐそこにある。いまこの瞬間も、争いに巻き込まれて死んでいる人はいる。銃口に怯える人がいる。病に倒れている人もいる。それなのにどうして、一分一秒先の未来、自分は生きていると思えるのだろうか。争いも銃口も病も、多くの人は想像でしか恐怖を語れない。もちろん、僕も。
僕たちも......というより僕は必死に生きようとせず、何の目的も無く生きている。
いまの社会は、想像以上に優しさに包まれている。死に怯えなくても良いのは素晴らしいことだが、その分、生きようという意識が希薄になってしまうのだろうか。自分の意志で生きているということを、過去のどこかへ置いてきてしまった。

与えられるだけの幸せを不幸だと感じたミァハ。
与えられる普遍的な幸福を享受することにしたキアン。
その間で答えを出せずに、目的無く生きるトァン。
貴方はどの考えに共感できるのか。どんな生き方をしているのか。
是非、考えて自分なりの答えを見つけてほしい。

僕たちが人間であるということ。
自分が自分であるということ。
それはどういうことなのか。

意味も無く明日を待つか。
意志を持って明日を待つか。
意識を持って自分なりの幸せを探し出すか。

人間が人間たりうる意味がここには詰まっている。
争いを無くし、調和を求めたユートピアの極致。
明日への希望を、最期まで人間らしく生きたいという願いを。

いつか人類が迎えるかもしれない儚く、泡沫のように淡く輝く未来を体験してもらいたい。

 

意識を持って生きていると言えるように、明日もその先も生きよう。

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スドー

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読書と料理が趣味、ゲームが生き甲斐の村人S。

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