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『言葉』によって失われたもの "心に留める-3-"

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かなり時間が空いちゃいましたが、オサダの数少ない真面目記事・真面目企画の、心に留めるシリーズですね。

第1回を読んでいただければ今回の内容に繋がると思います。第2回は番外編みたいな感じになりましたが、今回の話に繋がる部分もあるので、できれば目を通していただきたいと思います。一応リンクを。

『僕』と『あなた』 "心に留める -1-"
さて、このブログが始まり1ヶ月が経ちました。早いもの...
『言葉』の力"心に留める-2-"
シリーズ化しようとしているこのコーナー。第2回です。 ...

今回の内容が、第1回で言っていた『僕の考える言葉の業』の本質ですかね。言葉というものが何を生み出し、何を奪ってきたか、感じていただけたら幸いです。

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過去のおさらい

ちょっと日があいたので、簡単におさらいを。

第1回で『矛盾』というものについて語りました。世界は個物として成り立つのではなくそれぞれが繋がっている。それは個と個がイコールで結ばれる、『僕』=『あなた』であることを示している。しかしもちろん、同時に『僕』≠『あなた』でもある。
この矛盾は、受け入れがたい公式ではあるが、受け入れることで物事の視点がかなり変わるということ。

こんなところですかね。簡単に言うと。

そして第2回では、もっと身近な、僕たちの生活に寄り添った『言葉』について語りました。僕たちがごく当たり前のように使っている言葉の力と、その危うさ。僕たちの心に大きな影響を与えてしまうということ。

まだ読んでいない方は読んでいただけたら嬉しいですね。

さて、話していきましょうか。

『言葉』によって示されたもの

昔の人は季節や時期をいろいろなもので感じていました。例えば富士山の雪が解けて、鳥のような模様(豊鳥)が出たら種を植える、とか、干潟に○○の魚が訪れたら田植えを始める、とか。

一日という概念はずっとあったはずだと思うのです。(一年というサイクルはいつ気付いたのでしょうね。今回はそこは言及しません。)

とあるとき、誰かが気づきました。「この時期は寒いなぁ。」「雨が多いぞ。」「暑い!暑すぎる。」といった具合で。

こういった気温や景色、さらには匂いや音から、人々は季節(春夏秋冬)という『言葉』を生んだのでしょう。季節に応じて生活を変化させることができるようになりました。

例えば、フキノトウが顔を出したら初春だったり、沈丁花(ジンチョウゲ)や金木犀(キンモクセイ)などの季節を感じさせる香りの花だったり。セミが鳴いたら夏だ。鈴虫が鳴いたら秋だ、なんて感じで。
皆さんの中にも「○○を感じたら△△だな。」といったものがあったりするのではないでしょうか?

今回は例えとして季節を使いましたが、こんな感じで『言葉』で季節を示すことで、人々はフキノトウや沈丁花・金木犀、セミや鈴虫を『季節を表すもの』として共通認識を持つようになりました。

人々の生活を便利に、円滑に、無駄なく進むツールになったわけですね。「金木犀が香るから今は秋である!」「セミが鳴いているな。夏だなぁ。」といった感じですね。

『言葉』によって失われたもの

さぁここからが本題。別視点からこの言葉のツール性を見ていきましょう。

現在日本は、昔に生まれた季節・四季が美しい国として有名ですね。

では聞きます。1年は365日ありますが、四季で足りますか?4種類で分類しきれてるでしょうか?

「言われてみれば、春の最初と最後じゃ過ごしやすさ全然違う……。」「梅雨とか言うけど、ほとんど夏に分類されてるよね。」とか、いろいろ思うところがあるんじゃないでしょうか?

でも普段はそんなこと感じませんよねぇ。「夏だなぁ。」「冬だ、寒い。」「暖かくなってきたなぁ。春っぽい。」「紅葉がきれいだ。秋を感じる。」という表現で満足してますよね?

本来、僕たち人間の感性を持ってすれば、特に感受性豊かだと言われる日本人の感性を持ってすれば、季節は八季、十六季まで、もしかしたら1週間ごとに季節を定めても、それらを感じることができたのではないでしょうか。

しかしそれを四季という『大きな箱』に閉じ込めたせいで、季節は大雑把なものとなり、その中に細かく隠された情緒は感じにくいものとなりました。

世界と同じように、時間軸(季節)だって、一枚布として繋がっています。連なっています。

それを4つに分けてしまうことは、共通の言葉としては便利である反面、少しもったいない気がしませんか?
(もちろん初春・晩秋などの分類はありますが、あまり一般的ではないので、今回はないものとして扱っています。日常的に使う方はすみません……。)

また、前項で『季節を感じるもの』とされた植物や動物も、言葉に当てはめた結果、人々には『季節を感じるもの』という扱いで終わっているかもしれないのです。

季節の分類がない時は、きっとセミの声を聴いた人は「いい音色だな。」と、音そのものに耳を傾けていたのでしょう。
しかし、言葉によってセミの声を聴いた人は「あぁ、夏だなぁ。」という『セミの声に関連付けられた夏という記号としての言葉』を感じるようになり、セミの声自体はそれ以上でもそれ以下でもないものになってしまった可能性があるのです。

何かを五感で感じることで何かを連想すること自体はとてもいいことだと思いますが、その言葉に固執するあまり、五感に語り掛けてきている『その何か』への興味を失ってしまっているかもしれない、ということを頭の片隅に入れておいてください。

「分かる」は「分ける」

前田紀貞氏のブログ内で、この言葉がかなり心をつつきました。

物事を理解するには、今まで同じように扱っていたものを別の言葉として分ける必要がある、ということです。

今まで『季節』の分類がなかった一年間の時間の移ろいを、「この暑い時期は夏。寒い時期は冬。」と分けることで、『季節』というものを理解することができるのですね。

もちろん、物事を理解することが悪いわけではありません。しかし、その理解の裏で『今まで繋がっていた何かを切り離してしまった』わけです。

そして、ここでも第1回の話同様、『切り離してしまった状態』『切り離す前の状態』を、どちらも知ることが求められるわけです。

次回は建築に絡めます。

さて、またまたかなり長くなってしまいましたね。

3回分読むとわかると思いますが僕は、『言葉』はいいものとも思ってますし、悪いものとも思ってます。

わかりますね。これも矛盾ですが、僕の話を聞いて受け入れることができるようになって欲しいわけです。少し傲慢ですかね?(笑)

さて、次は建築学科らしく、建築に絡めていこうかなぁと思います。

まぁこの話、最初に話した通りほとんど前田紀貞氏のブログの受け売りなんですよね。建築の話もかなりそちらによった話になってしまう……かも……?

そのうち自分の考えを持てるといいなぁ。

それでは。

前田紀貞の建築家ブログ
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オサダ

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